平成30年3月27日~4月3日、相馬三妙見に参詣して来ました。
福島県相馬市小泉 妙見山 歓喜寺 ( 中村妙見菩薩 )
南相馬市小高区仲町 金室山 金性寺 ( 小高妙見菩薩 )
原町区大甕 大甕山 医徳寺 ( 太田妙見菩薩 )
珍しく長い説明ですので、お暇な時にでもお読み下さい。
源頼朝の奥州藤原征伐に、下総国の千葉常胤は参戦しました。
その恩賞として、常胤の次子の師常(平将門の12代)は、
本領の下総国相馬郡の他に、陸奥国行方郡を受領しました。
1323年、重胤(千葉師常の6代)は、鎌倉幕府の権力闘争で、
居城の下総国守谷城から、陸奥国行方郡太田に館を建て移ります。
その際、それまで信仰してきた妙見菩薩を、この地に祀りました。
これが太田妙見の始まりで、重胤は奥州相馬氏の初代になります。
この時、妙見菩薩を下総から供奉して来た長命寺が別当になりますが、
後に、歓喜寺が正別当となります。
この長命寺は、涼ヶ岡八幡宮が造営されると、別当となりました。
1336年(1326年の説も有り)、相馬重胤は小高城を造り居城を移します。
その際、妙見菩薩像が重くて遷す事能わず、新たに妙見菩薩を勧請した。と伝わります。
残った太田妙見には、歓喜寺が末寺の星蔵院を建て別当とします。
この相馬太田神社の祈祷殿が、星蔵院でした。
1611年、17代相馬利胤は中村に中村城を造り、居城を移します。
その際、妙見菩薩は中村城に遷座して、
小高には妙見菩薩が新造され、金室山金性寺が別当となります。
これが中村妙見と小高妙見です。
1643年、歓喜寺の末寺 北斗山妙光院の「奥の院」として、妙見祠 ( 妙見堂 )が建立され遷座します。
この妙見祠 ( 妙見堂 )が、現在の相馬中村神社の本殿です。

この相馬中村神社の社務所は、歓喜寺の末寺 北斗山妙光院の転用です。
明治初頭の神仏分離令で太田・小高・中村の妙見宮は、
妙見菩薩から祭神を「天之御中主大神」に変え、
それぞれ、現在の相馬太田神社・相馬小高神社・相馬中村神社に変わります。
太田妙見菩薩は、当時の別当 大甕山医徳寺に遷座し、
本堂裏の高台の妙見堂に鎮座していると思われます。
小高妙見菩薩は、別当の金室山金性寺が奉じて移転します。
中村妙見菩薩は、正別当の妙見山歓喜寺が奉じて移転します。
[ 出典 ]
HP : ──────── 「 が ら く た 置 場 」 by s_minaga────────
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/index.htm
記事 : 妙見大菩薩・妙見信仰
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/myoken48.htm
記事 : 中村妙見山歓喜寺
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/myoken48_1.htm
相馬中村神社 案内板

金性寺の由来

その他
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相馬市小泉 真言宗豊山派 妙見山 歓喜寺 ( 中村妙見菩薩 )

山門

本堂正面奥の厨子には、阿弥陀如来。右奥の厨子には、不動明王。
左奥の厨子には、毘沙門天が祀られ、この三尊は絶対秘仏となっています。
その厨子の前の宮殿に、中村妙見菩薩が安置されているそうです。

扁額


参道左の

お堂は、

文殊堂。

更に左のお堂は、

聖天 (大聖歓喜大自在天)を祀っています。 これが歓喜寺の、寺号の由来だと思われます。

後列の左から、稲荷大明神、大日堂と、 東日本大震災慰霊堂の慈眼院。

庫裡の玄関を入ると正面の部屋には、大日如来が祀られた小さな須弥壇の前に椅子が並べられ、
左の大きな部屋の須弥壇には、中央に中村妙見菩薩のお前立ちが、
左右に聖観音立像と十一面観音立像を従え、
その外側には両界曼荼羅の掛け軸が下がっていました。
お前立ちは、北方を守護する霊獣の玄武の上に立ち、黒い剣を両手で下に突き立て、
甲冑を身に付けた、武将形でした。
また、こちらは、奥相三十三観音霊場 第四番札所でもあります。
どの観音様なのか、聞き漏らしてしまいました。
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南相馬市小高区仲町 真言宗豊山派 金室山 金性寺 ( 小高妙見菩薩 )

由来

本堂

扁額。 通常はこの本堂に、小高妙見菩薩が鎮座していると思われます。

こちらは現在、改修工事中でした。

鐘楼門を潜った、

右奥に、

二十三夜堂。

扁額

鰐口の影に、ネコの彫刻。
金性寺は、福島八十八ヶ所霊場 第三十八番札所、
北国八十八ヶ所霊場 第二十番札所、 でもあります。
今現在、金性寺は、南相馬市原町区大甕の妙仲庵で開山しているそうです。
http://www.kinsyoji.com/
平成31年1月1日、初詣で再訪しましたが、
福島県南相馬市小高区の相馬三妙見 金室山 金性寺は、まだ復旧工事中で、
楼門はカラーコーン2個で塞がれていましたので、門前で手を合わせ移動しました。

福島県南相馬市原町区大甕 妙 仲 庵
同じ、相馬三妙見 医徳寺から少し東に離れた場所でした。


こちらが、金性寺の仮事務所になっています。

萱葺きの二階建てで、趣深い建物でした。

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南相馬市原町区大甕 真言宗豊山派 大甕山 尊星院 医徳寺 ( 太田妙見菩薩 )

鐘楼門

扁額

本堂

本堂の左に並ぶのは、

奥相三十三観音霊場 第十一番札所 大甕聖観音

寺務所内に、太田妙見菩薩の写真が飾られていましたので、見せて頂きました。
玄武を片足で踏み付け、右手で持った剣の切先を右下に向けた武将形でした。

観音堂と、この石碑や石仏の間には、
以前、樹齢300年を超える市町村指定の天然記念物「枝垂れ松」があった様ですが、
今は何も無くなっていました。

奥の石段を登ると、

妙見堂。

奥の格子窓からは、

お厨子が垣間見えました。 この中に、太田妙見菩薩が鎮座しているのかな。
本堂に本尊として祀られているという話もある様です。
妙見菩薩は菩薩とは呼ばれますが、大黒天や弁財天 毘沙門天等と同じ、天部の仏像です。
大黒天や弁財天 毘沙門天はまた七福神にも数えられる様に、神仏混淆の信仰対象です。
それが、明治政府の神仏分離政策により、相馬氏が信仰した三妙見は、
乱暴な言い方をすると、本尊の妙見菩薩は別当寺へ、建物は神社へと変わった様です。
福島県相馬市小泉 妙見山 歓喜寺 ( 中村妙見菩薩 )
南相馬市小高区仲町 金室山 金性寺 ( 小高妙見菩薩 )
原町区大甕 大甕山 医徳寺 ( 太田妙見菩薩 )
珍しく長い説明ですので、お暇な時にでもお読み下さい。
源頼朝の奥州藤原征伐に、下総国の千葉常胤は参戦しました。
その恩賞として、常胤の次子の師常(平将門の12代)は、
本領の下総国相馬郡の他に、陸奥国行方郡を受領しました。
1323年、重胤(千葉師常の6代)は、鎌倉幕府の権力闘争で、
居城の下総国守谷城から、陸奥国行方郡太田に館を建て移ります。
その際、それまで信仰してきた妙見菩薩を、この地に祀りました。
これが太田妙見の始まりで、重胤は奥州相馬氏の初代になります。
この時、妙見菩薩を下総から供奉して来た長命寺が別当になりますが、
後に、歓喜寺が正別当となります。
この長命寺は、涼ヶ岡八幡宮が造営されると、別当となりました。
1336年(1326年の説も有り)、相馬重胤は小高城を造り居城を移します。
その際、妙見菩薩像が重くて遷す事能わず、新たに妙見菩薩を勧請した。と伝わります。
残った太田妙見には、歓喜寺が末寺の星蔵院を建て別当とします。

この相馬太田神社の祈祷殿が、星蔵院でした。
1611年、17代相馬利胤は中村に中村城を造り、居城を移します。
その際、妙見菩薩は中村城に遷座して、
小高には妙見菩薩が新造され、金室山金性寺が別当となります。
これが中村妙見と小高妙見です。
1643年、歓喜寺の末寺 北斗山妙光院の「奥の院」として、妙見祠 ( 妙見堂 )が建立され遷座します。
この妙見祠 ( 妙見堂 )が、現在の相馬中村神社の本殿です。

この相馬中村神社の社務所は、歓喜寺の末寺 北斗山妙光院の転用です。
明治初頭の神仏分離令で太田・小高・中村の妙見宮は、
妙見菩薩から祭神を「天之御中主大神」に変え、
それぞれ、現在の相馬太田神社・相馬小高神社・相馬中村神社に変わります。
太田妙見菩薩は、当時の別当 大甕山医徳寺に遷座し、
本堂裏の高台の妙見堂に鎮座していると思われます。
小高妙見菩薩は、別当の金室山金性寺が奉じて移転します。
中村妙見菩薩は、正別当の妙見山歓喜寺が奉じて移転します。
[ 出典 ]
HP : ──────── 「 が ら く た 置 場 」 by s_minaga────────
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/index.htm
記事 : 妙見大菩薩・妙見信仰
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/myoken48.htm
記事 : 中村妙見山歓喜寺
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/myoken48_1.htm
相馬中村神社 案内板

金性寺の由来

その他
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相馬市小泉 真言宗豊山派 妙見山 歓喜寺 ( 中村妙見菩薩 )

山門

本堂正面奥の厨子には、阿弥陀如来。右奥の厨子には、不動明王。
左奥の厨子には、毘沙門天が祀られ、この三尊は絶対秘仏となっています。
その厨子の前の宮殿に、中村妙見菩薩が安置されているそうです。

扁額


参道左の

お堂は、

文殊堂。

更に左のお堂は、

聖天 (大聖歓喜大自在天)を祀っています。 これが歓喜寺の、寺号の由来だと思われます。

後列の左から、稲荷大明神、大日堂と、 東日本大震災慰霊堂の慈眼院。

庫裡の玄関を入ると正面の部屋には、大日如来が祀られた小さな須弥壇の前に椅子が並べられ、
左の大きな部屋の須弥壇には、中央に中村妙見菩薩のお前立ちが、
左右に聖観音立像と十一面観音立像を従え、
その外側には両界曼荼羅の掛け軸が下がっていました。
お前立ちは、北方を守護する霊獣の玄武の上に立ち、黒い剣を両手で下に突き立て、
甲冑を身に付けた、武将形でした。
また、こちらは、奥相三十三観音霊場 第四番札所でもあります。
どの観音様なのか、聞き漏らしてしまいました。
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南相馬市小高区仲町 真言宗豊山派 金室山 金性寺 ( 小高妙見菩薩 )

由来

本堂

扁額。 通常はこの本堂に、小高妙見菩薩が鎮座していると思われます。

こちらは現在、改修工事中でした。

鐘楼門を潜った、

右奥に、

二十三夜堂。

扁額

鰐口の影に、ネコの彫刻。
金性寺は、福島八十八ヶ所霊場 第三十八番札所、
北国八十八ヶ所霊場 第二十番札所、 でもあります。
今現在、金性寺は、南相馬市原町区大甕の妙仲庵で開山しているそうです。
http://www.kinsyoji.com/
平成31年1月1日、初詣で再訪しましたが、
福島県南相馬市小高区の相馬三妙見 金室山 金性寺は、まだ復旧工事中で、
楼門はカラーコーン2個で塞がれていましたので、門前で手を合わせ移動しました。

福島県南相馬市原町区大甕 妙 仲 庵
同じ、相馬三妙見 医徳寺から少し東に離れた場所でした。


こちらが、金性寺の仮事務所になっています。

萱葺きの二階建てで、趣深い建物でした。

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南相馬市原町区大甕 真言宗豊山派 大甕山 尊星院 医徳寺 ( 太田妙見菩薩 )

鐘楼門

扁額

本堂

本堂の左に並ぶのは、

奥相三十三観音霊場 第十一番札所 大甕聖観音

寺務所内に、太田妙見菩薩の写真が飾られていましたので、見せて頂きました。
玄武を片足で踏み付け、右手で持った剣の切先を右下に向けた武将形でした。

観音堂と、この石碑や石仏の間には、
以前、樹齢300年を超える市町村指定の天然記念物「枝垂れ松」があった様ですが、
今は何も無くなっていました。

奥の石段を登ると、

妙見堂。

奥の格子窓からは、

お厨子が垣間見えました。 この中に、太田妙見菩薩が鎮座しているのかな。
本堂に本尊として祀られているという話もある様です。
妙見菩薩は菩薩とは呼ばれますが、大黒天や弁財天 毘沙門天等と同じ、天部の仏像です。
大黒天や弁財天 毘沙門天はまた七福神にも数えられる様に、神仏混淆の信仰対象です。
それが、明治政府の神仏分離政策により、相馬氏が信仰した三妙見は、
乱暴な言い方をすると、本尊の妙見菩薩は別当寺へ、建物は神社へと変わった様です。
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